みかわち焼き

歴史

16世紀末のはじまり ― 朝鮮陶工

中野窯で焼かれたと考えられている染付 佐世保市蔵

〈朝鮮 ― 平戸 ― 三川内〉

 その歴史には、源を一つにする、二つの流れがあります。

 一つは、16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」に始まります。

 慶長3年(1598)、平戸藩の領主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)は、帰国にあたって朝鮮の陶工を100人ほど連れて帰ります。朝鮮人陶工の巨関(こせき)は、中野村上椿坂[現在の長崎県平戸市]に開窯しました。これが現在のみかわち焼のルーツの一つになります。平戸中野窯の陶工たちは、17世紀半ばに三川内山に移動しました。

絵唐津の陶片、江戸時代初期、 葭(よし)の本窯(もとがま)跡・木原地区、佐世保市蔵

〈朝鮮 ― 唐津 ― 三川内〉

 そしてもう一つ、それは同時期に佐賀県北部に誕生し朝鮮半島からの陶工によって急速に発展をとげた唐津焼(からつやき)からの流れです。

 九州の最も早い時期の施釉陶器である唐津焼が焼かれていました。唐津焼はやがて日本で最初の磁器焼成につながる形で拡大し発展していきますが、現在の伊万里市や有田町、そして長崎県佐世保市など周辺に陶工も移っていきました。

 唐津から椎ノ峯(しいのみね/伊万里市)に移った高麗媼(こうらいばば)[中里嫛(えい)]は、巨関に招かれて127人の陶工たちと共に三川内に移住し、長葉山(ながはやま)(現在の三川内山)に開窯します。

 巨関も高麗媼も、そのルーツは韓国・慶尚南道熊川(こもがい)でした。

白い器の誕生 ― 御用窯へ

針尾島の遠景
針尾島の遠景
染付菊文小皿  江戸時代(17 世紀中頃)代官所跡から発掘 佐世保市蔵

 日本における磁器焼成は、三川内の隣りの有田(佐賀県)で1610年頃に始まりました。当時の最先端産業でしたから、技術はもちろん原料も厳しく保護されていました。

 三川内では、当初は陶器を焼いていましたが、1640年頃に白いやきもの=磁器へと変わり始めます。そのきっかけとなったのは、巨関の子である今村三之丞(いまむらさんのじょう)が、寛永10年(1633)に針尾島(はりおじま)で陶石(とうせき)[網代(あじろ)陶石]を発見したことでした。

 平戸藩は、寛永14年(1637)に御用窯を開窯。寛永18年(1641)には、三之丞を窯場の責任者兼役人である皿山棟梁代官に任命し、「今村」の姓を授けました。
 慶安3年(1650)、平戸中野窯の主力陶工たちをすべて三川内山に移し、御用窯の体制が完成します。御用窯とは、藩の庇護のもと良質の原料と最高の技術を駆使した窯のことで、東窯と西窯がその役割を果たしました。

 寛文2年(1662)からは三之丞の子・今村弥次兵衛(いまむらやじべえ)(如猿(じょえん))が、天草陶石と網代陶土との調合に成功して原料が揃うと、磁器生産が本格化します。またこの頃から、透かし彫りや置き上げなどの細工もつくり始められました。

 17世紀後半、三川内は海外への輸出品を盛んに焼きましたが、間もなく中国の景徳鎮窯の攻勢により、ヨーロッパの市場が奪われます。日本の磁器の窯場は、国内向けの安価な日用品をつくる必要に迫られていきました。

 みかわち焼の民窯が浮き沈みをくり返す一方、平戸藩の篤い保護下にあった御用窯は、採算を度外視して技術の粋を極めた細工ものや茶道具などをつくり続けます。卓越した技術による質の高さで技巧を凝らした器の数々は注目を集めていきますが、寛政年間(1789~1800年)頃までは、献上品として禁制の非売品であり、その製法は門外不出でした。

 平賀源内は、『陶器工夫書』(1771年著)の中で、もしみかわち焼が伊万里焼(いまりやき)や唐津焼(からつやき)のように貿易で取引されるようになったら、中国人やオランダ人も大いに欲するだろうと述べています。

光を通す薄い器「卵殻手(らんかくで)」と赤絵の始まり

 天保元年(1831)頃、輸出が始まります。それは、江戸時代の日本人には馴染みのなかったコーヒー碗でした。池田安治郎、高橋兵助、中里童太郎、古川正作らの御用窯工人は、純白極薄の卵殻手(らんかくで)と呼ばれるコーヒー碗やワインカップなどを開発。捻(ひね)り細工(動物や人を象った置物)、透し彫りと共に輸出しました。みかわち焼の技術は瞬く間にヨーロッパで高い評価を得ました。

 この技術力と海外での高い評価に注目した有田の豪商・久富与次兵衛は、天保12年(1841)頃から卵殻手のティーカップを注文し、その製品に有田で赤絵を加えて「蔵春亭三保造」銘の製品を輸出をしています。

 明治になり廃藩置県ののち、御用窯は民窯となり、古川澄二と福本栄太郎らが「満宝山商舗(萬寶山商舗/まんぽうさんしょうほ)」を設立。欧米における日本の工芸品ブームもあり、パリ万国博覧会、シカゴ博覧会、セントルイス博覧会など出品し高い評価を受けました。またそこで学んだ、アール・ヌーヴォーの影響を受けた花瓶など、それまでにはなかった大きさのやきものもつくられるようになりました。

細描きの高級食器と輸出用の洋食器

 海外での評価と国内での販路の拡大の一方で、高度な技術の継承が困難になりつつある危機感が高まり、明治32年(1899)に三川内陶磁器意匠伝習所設立されました。形を変え、昭和まで続きました。
 明治後期から昭和前期には、数々の名工が登場し、輸出用には薄くて白い器のコーヒーカップ、ポットなどの洋食器、国内向けには細い線で埋めた絵柄の高級食器が盛んにつくられました。国内でも有数の産地への育っていきます。
 第二次世界大戦ののちは、大量生産の波に乗りおくれたこともあり、ほかのやきものの産地に比べて規模が拡大しませんでした。しかしそれが逆に現代にも、昔ながらのつくり方が続く結果となりました。

年表

江戸以前
1594年 [文禄3]
肥前松浦党一族の岸岳窯(きしだけよう)(佐賀県唐津市)で古唐津などの陶器が焼かれていたが、その一部の陶工が三川内の長葉山に移り開窯する
1598年 [慶長3]
初代平戸藩主松浦鎮信公(しげのぶ)(法印鎮信)が朝鮮より陶工約100名を平戸に連れ帰り、朝鮮人陶工巨関(こせき)が中野村上椿坂(現、長崎県平戸市)に開窯する
江戸時代
1610年 [慶長15]
巨関の子、今村三之丞(いまむらさんのじょう)出生(みかわち焼の開祖)
1622年 [元和8]
巨関が唐津椎ノ峯(しいのみね)より高麗媼(こうらいばば)を招く。高麗媼は長葉山(ながはやま)に開窯
1630年 [寛永7]
三之丞の子、弥次兵衛出生(後の如猿(じょえん))
1633年 [寛永10]
三之丞が針生島(はりおじま)三ッ岳で白磁砿を発見し白磁の焼成を開始。同時に青磁の焼成研究も開始
1637年 [寛永14]
三川内に本格的平戸藩御用窯を開窯
1638年 [寛永15]
三之丞が葭ノ本(よしのもと)に開窯
1641年 [寛永18]
今村三之丞、平戸藩より「皿山棟梁兼代官」を拝命、今村の姓を下賜される
1643年 [寛永20]
平戸藩が三川内・木原・江永に皿山役所出張所を設立
赤絵焼を始める
1650年 [慶安3]
平戸中野窯の主力陶工を三川内山に移動、これにより平戸藩御用窯の体制が完成する
1659年 [万治2]
四代平戸藩主松浦鎮信(天祥鎮信)、江戸城本丸の再建にあたり、染付皿、鉢を献上
1662年 [寛文2]
今村弥次兵衛、砥石であった天草陶石がやきものに使えることを発見
1664年 [寛文4]
今村弥次兵衛が天草陶石と三ッ岳石[綱代陶土(あじろとうど)]との調合に成功、純白の白磁を完成
将軍家献上品の用命を受ける
透かし彫り、置き上げ、捻り細工等始める
1666年 [寛文6]
公儀(徳川家)御献上品ご用命を受ける
1668年 [寛文8]
三川内皿山代官所、御細工所など5棟を新築、藩窯の一切を管理する
1699年 [元禄12]
藩主鎮信(天祥鎮信)、白磁みかわち焼を禁裏奉献
1702年 [元禄15]
今村弥次兵衛が天祥鎮信より如猿の号を賜る
1712年 [正徳2]
木原山で、中里藤七兵衛(中里茂右衛門の三男、横石藤七兵衛と改名)が天草陶石を採り入れ、磁器の焼成を始めた
1751年 [宝暦元]
三川内の陶工の一部が佐々の市ノ瀬皿山に移動
1751年~ [18世紀半ば]
磁器の技術を保全するため、長男以外への伝授を禁じた。解禁は享和年間(1801~04年)
1773年 [安永2]
将軍家へ例年献上
1804年 [文化元]
瀬戸の加藤民吉がみかわち焼の技法修得の目的で三川内の薬王寺に寺男として住み込み開始
将軍家へ例年献上
1807年 [文化4]
長崎に平戸三川内焼物産会所を設置。盛んに海外貿易を行う
1829年 [文政12]
将軍家へ例年献上
1831年 [天保元]
中里利助と古川類蔵 の出島への売り込みにより、「平戸皿山製銘」コーヒー碗(薄手兜形茶碗)の輸出始まる
1837年 [天保8]
池田安次郎、古川正作 、高橋平助、中里丑太郎らにより、薄手磁器「卵殻手(らんかくで)」を完成したと伝わる。椋尾平八郎、 口石慶治、古川類蔵、地田仙之助、中里丑太郎らが生産にあたった
1841年 [天保12]
有田の商人・久富與次兵衛(ひさとみよじべえ)がオランダ貿易で、三川内に薄手碗、カップ&ソーサーを発注。赤絵の武者絵が好評
1846年 [弘化3]
将軍家へ例年献上
1848~55年 [嘉永年間]
輸出用の珈琲碗を、田中数之助、椋尾市良二、中里茂三郎、稲田代助、里見三郎助らが盛んに生産した
1862年 [文久2]
中里平兵衛、須佐焼御用を拝命する
1864年 [元治1]
中里庄之助が皿山代官拝命
1865年 [慶応元]
金襴錦手の二度焼を金氏多三郎、田中数之助、今村豊壽、森利喜松が始める
福本榮太郎が平戸焼物産会所の一切の業務を担当し、貿易に従事する
古川又造が御用細工人に任命される
明治以降
1871年 [明治4]
明治維新にともなう廃藩置県により、三川内の平戸藩の御用窯は廃窯され、平戸藩物産会所の販売権とともに民間の手に移り民窯として再出発。古川澄二と福本栄太郎らが「満宝山商舗(萬寶山商舗/まんぽうさんしょうほ)」とし、製品には「満宝山枝栄製」または「平戸産枝栄製」と記された
1872年 [明治5]
この頃より従来の大型の登窯(50~70m)から小型(10~30m)のものにし販路を拡大
1874年 [明治7]
満宝山商舗が経営不振となり、豊島政治(とよしませいじ)へ穣渡
1876年 [明治9]
アメリカのフィラデルフィア万国博覧会に出品
1877年 [明治10]
精密な小物の素地成形に石膏(せっこう)を使用し始める
1878年 [明治11]
パリ万国博覧会に出品し、中里茂三郎と口石慶治が名誉賞を受ける
1879年 [明治12]
口石丈之助、対州陶土を発見する
1880年 [明治13]
藤本熊二、藤本源吉が磁器製碁石を製作する
1884年 [明治17]
口石丈之助、籠目状の球体を積み上げた香炉を制作
現代の透かし彫りの技法が完成
1887年 [明治20]
藤本熊二、藤本源吉が磁器製義歯を製作する
今村虎之助が「ボカシ」画その外に、蝋塗を使用する技法を発明する
1888年 [明治21]
製陶会社(社長今村啓吉)を設置
1889年 [明治22]
パリ万国博覧会に出品
1891年 [明治24]
東京上野博覧会に出品
1893年 [明治26]
シカゴ・コロンブス万国博覧会に出品、豊島政治が入賞
1894年 [明治27]
長崎県磁器製造業組合(組合長古川又造)を設立
1896年 [明治29]
京都内国勤業博覧会に出品
1897年 [明治30]
鑞を用いて模様を描く技法を考案
1899年 [明治32]
豊島政治、三川内陶磁器意匠伝習所を創設
1900年 [明治33]
中里森三郎、パリ万国博覧会に出品し受賞。褒状に、今村啓吉、豊島政治、里見政七
この頃の長崎県の陶磁器生産額は全国で6番目に入り、みかわち焼は4~5割、波佐見焼は6~5割と推測される
1901年 [明治34]
日本窯業第一回共進会に出品
今村猪吉が「素猿」の号を拝領
1902年 [明治35]
豊島政治らが合資会社を設立する
1904年 [明治37]
里見政七がセントルイス博覧会に出品し、金牌一等賞を受ける
1906年 [明治39]
中里己午太(みまた)、陶磁器工業補習学校を創立
1910年 [明治43]
日英博覧会に出品し、銀賞に豊島政治、銅賞に田中宇太郎
中里豊四郎、福本九市が福岡共進會に出品し受賞する
大日本窯業協會の依頼で、三川内窯業沿革調査開始(翌年『三川内窯業沿革史』発行)
1911年 [明治44]
旧藩主松浦厚より、中里巳午太が「三猿」の号を賜わる
1916年 [大正5]
この頃より登窯から単窯(石炭)に転換。共同窯から工房ごとの窯に変わっていく
1918年 [大正7]
工業補習学校を陶磁器徒弟養成所に改称
1932年 [昭和7]
長崎県三川内陶磁器工業組合を設立
1941年 [昭和16]
三川内西窯の使用を停止
1943年 [昭和18]
長崎県陶磁器統制組合を設立
1947年 [昭和22]
統制組合を解散、長崎県三川内陶磁器工業組合に改名
長崎県美術工芸陶磁器研究所が設置される
1950年 [昭和25]
商工協同組合の組織変更により、三川内陶磁器工業協同組合に改名
1960年 [昭和35]
葭の本窯跡が長崎県文化財指定となる
1971年 [昭和46]
三川内陶磁器文化センターが完成
1974年 [昭和49]
江永山古窯の発掘調査が行われる
1977年 [昭和52]
三川内古窯跡群の緊急確認調査が行われる
1978年 [昭和53]
伝統的工芸品産地として国の指定を受ける
1982年 [昭和57]
三川内焼伝統産業会館が開館
葭の本窯跡の範囲確認調査が行われる
1986年 [昭和61]
三川内焼陶祖祭と、はまぜん祭りが始まる
1995年 [平成7]
三川内焼伝統産業会館に三川内焼美術館増設完成・佐世保市うつわの歴史館落成
1998年 [平成10]
開窯400年祭を実施

参照資料

『佐世保市史 通史編上巻』(佐世保市史編さん委員会/編さん 佐世保市、2002年)
波佐見焼・三川内焼関連年表(長崎県窯業技術センター)
『長崎の陶磁器』(長崎県立大学編集委員会、2015年)
『土と炎の里 長崎のやきもの』 (下川達彌、下川納理子発行、2001年)
図録『将軍家献上の鍋島・平戸・唐津~精巧なるやきもの~』(佐賀県立九州陶磁文化館、2012年)
『近代における三川内焼の評判と生産状況』(宮地英敏、『地球社会統合科学』第23巻 )
『三川内窯業史』(久村貞男/著 芸文堂 2014)

近代みかわち焼 名鑑

三川内陶磁器意匠伝習所 (1899~1917年)

 明治維新を迎え、みかわち焼は、平戸御用窯としての後ろ盾を失い、民間窯としてその衰退は目を覆うほどでした。この危機を克服するには、門外不出といわれた御用窯の技術を若者に伝え、新しい意匠や技術を取り入れて、新時代に合った製品を作り出すことが緊急の課題となりました。

 この点を痛感した豊島政治は、三川内山窯焼総代の里見政七、後に三猿の号をもつ中里巳午太、中里利一、今村虎之助らとともに県費の補助を得て、明治32年(1899)、「三川内陶磁器意匠伝習所」を創立します。修業年限は4年(ただし授業期間は8月1日から9月末日の2カ月間)、陶画と製型の二つの科を置き、所長に豊島政治、副所長に里見政七、古川又造が就任しました。中里巳午太、今村豊寿は陶画を教え、諸隈鹿太郎、古川米之丞、池田直之助らが細工の教師になるなど、みかわち焼の名工たちがその伝統文化の指導にあたりました。

 また他校の夏休み期間を利用し、東京美術学校助教授の島田佳実、有田工業学校教論の徳見知敬を招いて、新しい意匠考案を学習させました。明治39年(1906)にはさらに「村立工業補習学校」が創設され、「三川内陶磁器意匠伝習所」とあわせて、みかわち焼の技術向上が図られるようになります。両者が大正6年(1917)に合併して「村立陶磁器徒弟養成所」と改組されるまでの14年間に164名の卒業生を輩出し、その中には相当数の女生徒も含まれました。

銘の種類「三川内傳習所製」/「三川内陶磁器意匠伝習所製」

古川又造 ふるかわ・またぞう

(1812~87年)

 ロクロ細工の名人。先代(初代)古川庄作もロクロ細工の名人で、筆の長軸をロクロ挽きして人々を驚かせ、また薄手コーヒー碗製作の名匠でした。

 又造は、慶応元年(1865)、平戸藩主の御用細工人となります。明治時代になると、個人経営に転じて陶磁器製造を続けました。内外の博覧会や共進会にも出品し、数々の賞を受賞しました。明治27年(1894)には、磁器製造業組合の組織に際し、その組長となります。明治32年(1899)、「三川内陶磁器意匠伝習所」創設の発起人となり、副所長に就任するなど、みかわち焼の発展に貢献しました。

 又造の長男・米之丞(よねのじょう)は、平戸旧城御庭焼御用に雇用されています。製型の技術にすぐれ「浮白(ふはく)」の号を拝領し、明治29年(1896)の「村立工業補習学校」設立以来、製型教師として教鞭をとりました。

 庄作と又造が率いた案銘「古川」の製品には、「大日本三川内古川製」「三川内古川造」などの銘が書かれ、「満宝山商舗(まんぽうざんしょうほ)」の販売する薄手の食器類を制作しました。

銘の種類 「大日本三川内古川製」/「三川内古川造」

豊島政治 とよしま・せいじ

(1852~1919 )

 みかわち焼中興の祖とも呼ばれ、産地のリーダーとして活躍しました。三川内と同村の折尾瀬村桑木場の、豪農で里正の職にある家の長男として生まれましたが、家政を舎弟に委ね、明治17年(1884)以来、69歳で死去するまで三川内に居住しました。

 明治7年(1874)、平戸藩の御用窯製品の輸出商社の流れを汲む「満宝山商舗」を叔父・古川澄二から受け継いで立て直し、販路の拡張に努力する一方、藩窯から民窯に転じた産地の衰退を憂い、明治32年(1899)に「三川内陶磁器意匠伝習所」を設立。郡や村の公職に就き、その間、中国、韓国を旅行して陶磁器の視察を行い、技術の向上に努めました。また率先して有志とともに国内外の博覧会に出品し、みかわち焼の名声を広めました。さらに、もろもろの資金調達のために、明治35年(1902)にみかわち焼の製造販売会社として「三川内合資会社」を設立、自ら社長となります。

 豊島率いる窯「豊島」は、明治4年(1871)以降、叔父・古川澄二時代から続く窯銘で、「豊蔦製」「三川内豊嶋製」などの銘が書かれています。

銘の種類 「三川内合資會社製」/「平戸産三川内」(以上、窯名「三川内合資会社」)/「豊蔦製」/「三川内豊嶋製」(以上、窯名「豊島」)

中里巳午太(三猿) なかざと・みまた(さんえん)

(1869~1941年)

 陶画の名人。画才に恵まれ、文様を立体的に装飾する置き上げ技法、釉下彩、ひねり細工などを駆使して数々の名品を残し、明治44年(1911)に松浦厚伯爵より「三猿」の号が贈られました。みかわち焼の窯元に生まれ、平戸藩最後の御用絵師・田中南文、幕末明治の日本画家・片山貫道に師事。大成後は、「三川内陶磁器意匠伝習所」「村立工業補習学校」で陶画を指導しました。

 明治33年(1900)の皇太子殿下御成婚の祝品として香炉一対を献上(今村克次郎との共作)。近代における献納品や内外博の出品は巳午太の手によるものが多くみられます。唐子絵も得意で「明治大正平戸焼の名工」とうたわれました。

銘の種類
「大日本平戸三川内古川米之丞造・中里巳午太筆」/「鶴峰園三猿」/「鶴峰」/「平戸三猿」/「贈川原氏鶴峰園還暦三猿」/「大日本三猿製」(以上、窯名「鶴峰」1869~1941年)
「鶴峰三猿」/「大日本三猿製」/「平戸三猿」/「暗川原氏鶴峰園還暦三猿」/「鶴峰祥瑞」(以上、窯名「三猿」1911年以降)

今村克次郎

 細工物を得意とし、代々御用窯の棟梁を勤めた今村家の流れをくむ名工です。明治23年(1890)、明治天皇が佐世保行幸の際、陳列品の中から克次郎の制作した太白鶏の置物1対を買い上げられました。また、明治33年(1900)の皇太子殿下御成婚の祝い品として、佐世保より献納の香炉1対の制作を嘱託されています(中里巳午太〈三猿〉との共作)。

 温厚篤実の性格で社会に信用が広く、「三川内陶磁器意匠伝習所」の発起人に名を連ね、「村立工業補習学校」にも貢献しました。

中里末太郎(陽山) なかざとすえたろう(ようざん)

(1897~1991年)

 昭和時代に名を馳せた胸工に、中里陽山(末太郎)がいます。

 薄手の白磁づくりの技術に長けており、季節の移り変わりを描いた風格ある染付のみならず、山水や花紋の彫りを施した「卵殻手(らんかくで)」の技法も神業と称されました。

 昭和2年(1927)、天皇陛下御即位大礼用の食器を製作し、昭和3年(1928)には宮内省御用達を拝命。昭和50年(1975)「薄手白磁成形焼成技術」で長崎県無形文化財保持者に指定されます。

 末太郎が率いていた「中里陽山窯」は、初代・中里森三郎、二代・助寿(森三郎)、三代・末太郎(森三郎の三男)と続き、四代幸康(陽山)が継ぎ、明治30年(1897)から平成3年(1991)まで稼働しました。

 薄く精巧な製品が特徴で、初代は貿易業を熱心に営み、明治15年(1882)より長崎や阪神地方、横浜まで販路の拡張に努めました。アメリカへも輸出され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に出品し受賞しています。それらの器は、一見するとヨーロッパの写しのようですが、形のバランスやその薄さは、みかわち焼の伝統の上に立つもので、近代のみかわち焼の技術を体現すると同時に、陽山の独壇場の世界でした。

銘の種類 「大日本三川内中里森三郎製」/「三川内陽山作」/「陽山」

口石家

口右丈之助[くちいし・じょうのすけ](1834?~1905年)
口右近太郎[くちいし・ちかたろう](1855年-不詳)
口右大八郎(長三)[くちいし・だいはちろう(ながみ)](1875~1955年)
口右長三[くちいし・ながみ](1911~1987年)

 口石家は透かし彫りの細工物で知られる名家です。初代・長右工門は、寛永14年(1637)の三川内皿山の創設者の一人でした。

 八代・口石丈之助は素材研究に熱心で、明治12年(1879)、対州(対馬)にて陶土を発見。明治15年(1882)頃から透かし彫り香炉の制作に没頭し、明治17年(1884)、ついに精密な逸品をつくり上げ、領主の松浦家に献上しました。明治23年(1890)には皇室に、菊桐御紋付二段香炉を献上。また同年、第3回内国勧業博覧会に三段香炉、二段香炉各1点を出品したところ、陳列の当日に外国人が購入しました。以来、東京、横浜より外国人向けに注文を受けて制作を行いました。透かし彫りの特許を出願する資料が残されています。

 丈之助の後継者である九代・口石近太郎は、東京、横浜、神戸を往来して香炉を販売していましたが、次第に注文のみに絞って日常品を制作。石膏型の技法を取り入れ、斬新な意匠に取り組みました。

 続く十代・口石大八郎(長山)は、丈之助の孫、近太郎の子。透かし彫りにおいて第一人者と称されました。「口石長山」銘を使用。昭和天皇が即位して間もない昭和6年(1931)、長崎県の嘱託によって《法隆寺五重の塔》を長男・晋(夭折)とともに制作、天皇に献上しました。作風は、薪窯焼成による若干青みがかった白色と相まって、形を含めて柔らかい独特の立体感があります。

 十一代・口石長三は大八郎の次男で、細工物を得意としました。「大日本三川内口石定」「長参製」の銘があります。ガス窯による焼成で磁器に透明感が生まれ、より白く精緻な切れ味が特徴。作業場に子供が出入りするのを嫌い、弟子の申し出も断わり続けていたといいます。

銘の種類 「口石長山」(窯名「口石長山」)/「大日本三川内口石定」/「長参製」(以上、窯名「口石定」)

金氏太三郎 かねうじ・たさぶろう

 幕末明治の輸出用の主力商品だった薄造りのコーヒー碗には、その多くに赤絵が施されていました。赤絵の技法は江戸時代の寛永年間(1624~43年)より行われていましたが、慶応元年(1865)、金氏太三郎、今村常作、森利喜松らの工夫により、錦絵をともなう赤絵の二度焼技法が完成されました。

 金氏太三郎の窯が焼く上絵付けを施した輸出向けの薄手食器は、「満宝山商舗」が取り扱う商品だったようで、碗皿の一組に「三川内金氏造」と「三生舎」の銘が混在しています。「三生舎」は金氏の販売店を示していると思われます。

銘の種類 「三川内金氏造」/「三生舎」/「大日本三生舎」

福本栄太郎 ふくもと・えいたろう

 慶応元年(1865)には、平戸藩が運営していた「平戸焼物産會所」の業務は、商人の福本栄太郎に任されました。明治4年(1871)に廃藩置県が行われると、御用窯製品一切を取り扱っていた「平戸焼物産會所」の業務は、古川澄二(運吉)に譲られました。古川は福本ほか有志と協力して個人経営し、名前を「満宝山商舗(まんぽうざんしょうほ)」と改めます。明治7年(1874)、豊島政治は叔父の古川から「満宝山商舗」の一切を引き受けて再建に乗り出しました。

「満宝山商舗」を離れた福本は、その後も自らの案を経営し、輸出用食器を製造していました。

銘の種類 「三川内福本造」/「平戸産福本造」/「三川内三青堂」(不詳)

田中窯

 「田中窯」の創始者は、「平戸焼物産會所」で貿易業に従事していた田中喜代作(きよさく)である説が有力です。先祖は寛永14年(1637)の三川内山の創設者、御用絵師の元祖の一人です。

 幕末時の「平戸産田中造」「田中造」「田中製」などの銘が付けられたものは、その流れと考えられています。明治以降は「満宝山商舗」時代の輸出品を製造しており、後に染付唐子文腕などもつくっています。おそらく本家の田中家であると思われます。

銘の種類「平戸産田中造」/「田中造」/「田中製」